2008年11月15日
天龍寺
定番ですが、天龍寺に行ってまいりました。京福電車の嵐山駅を降りてすぐ目の前に山門があります。境内は綺麗に色づいた所もありましたが、お目当ての宝厳院の獅子吼の庭や曹源池は、まだ早かったようです。

嵯峨野は、太秦・宇多野の西、桂川の北、小倉山の東、愛宕山麓の南に囲まれた付近に広がる広範な地域の名称です。天龍寺(霊亀山天龍資聖禅寺)は、吉野で没した後醍醐天皇を弔うために、宿敵であった足利尊氏が高僧夢窓国師を開山として、嵐山の亀山離宮を禅寺に改めたことから始るとされています。しかし実は、その建設の動機は、失意のうちに無くなった後醍醐天皇の怨霊鎮魂のためであったようです。
後醍醐天皇は、鎌倉幕府を倒し、天皇中心の政治を実現したのもつかの間、倒幕でともに戦った足利尊氏と対立し、天皇の証である三種の神器は持明院統の光明天皇の手に渡りました。
後醍醐天皇は、奈良の吉野に南朝を構え、都を奪回すべく画策しますが、足利軍に敗れ、失意のうちに吉野の仮宮で没します。
足利尊氏は、恨みと悔しさの内に亡くなった後醍醐天皇の鎮魂のために、怨霊となった天皇による復讐を恐れ、災いが自身に及ばないように天龍寺の建設を行ったと言います。
「太平記」には、建設に掛かる莫大な巨費は対明貿易「天竜寺船」が大きな役割を果たしたとあります。
当時は、嵐山一体が境内となっており、七堂伽藍と嵐山を借景にした美しい庭園を誇り、京都五山の一位となっていました。

室町時代、幕府の外交は、五山の僧が担っていました。貿易や財務は僧侶に不向きなため、莫大な課役を納めつつ、納税方として差配してきたんが、土倉・酒屋の者たちでした。
かの角倉了以を排出した吉田家は、この嵯峨野の天龍寺の財を管理し、幕府の政所代の下で納税方一衆を務め、有力土倉として、成り上がって来たのです。角倉了以の父・吉田宗桂と天龍寺塔頭の妙智院住持・策彦周良は、二度の入明を共にして、禅文化を日ノ本にもたらした盟友でした。荒波を越え、幾度も遭難しそうになりながら、渡航したといいます。

獅子の形をした獅子岩、岩から生えている破岩の松。一面に敷き詰めた緑の苔と楓の大木。嵐山を借景にした回遊式枯山水庭園。獅子吼の庭は、策彦周良による作庭と伝わります。


嵯峨野は、太秦・宇多野の西、桂川の北、小倉山の東、愛宕山麓の南に囲まれた付近に広がる広範な地域の名称です。天龍寺(霊亀山天龍資聖禅寺)は、吉野で没した後醍醐天皇を弔うために、宿敵であった足利尊氏が高僧夢窓国師を開山として、嵐山の亀山離宮を禅寺に改めたことから始るとされています。しかし実は、その建設の動機は、失意のうちに無くなった後醍醐天皇の怨霊鎮魂のためであったようです。
後醍醐天皇は、鎌倉幕府を倒し、天皇中心の政治を実現したのもつかの間、倒幕でともに戦った足利尊氏と対立し、天皇の証である三種の神器は持明院統の光明天皇の手に渡りました。
後醍醐天皇は、奈良の吉野に南朝を構え、都を奪回すべく画策しますが、足利軍に敗れ、失意のうちに吉野の仮宮で没します。
足利尊氏は、恨みと悔しさの内に亡くなった後醍醐天皇の鎮魂のために、怨霊となった天皇による復讐を恐れ、災いが自身に及ばないように天龍寺の建設を行ったと言います。
「太平記」には、建設に掛かる莫大な巨費は対明貿易「天竜寺船」が大きな役割を果たしたとあります。
当時は、嵐山一体が境内となっており、七堂伽藍と嵐山を借景にした美しい庭園を誇り、京都五山の一位となっていました。

室町時代、幕府の外交は、五山の僧が担っていました。貿易や財務は僧侶に不向きなため、莫大な課役を納めつつ、納税方として差配してきたんが、土倉・酒屋の者たちでした。
かの角倉了以を排出した吉田家は、この嵯峨野の天龍寺の財を管理し、幕府の政所代の下で納税方一衆を務め、有力土倉として、成り上がって来たのです。角倉了以の父・吉田宗桂と天龍寺塔頭の妙智院住持・策彦周良は、二度の入明を共にして、禅文化を日ノ本にもたらした盟友でした。荒波を越え、幾度も遭難しそうになりながら、渡航したといいます。

獅子の形をした獅子岩、岩から生えている破岩の松。一面に敷き詰めた緑の苔と楓の大木。嵐山を借景にした回遊式枯山水庭園。獅子吼の庭は、策彦周良による作庭と伝わります。

Posted by 篠田ほつう at 02:26│Comments(0)
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