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2009年03月31日

街中のオアシス

 少し冷え込みが続き、さくらの開花も少し遅れているかな。昼間は強い陽射しが差し込みだしました。
 京都市役所を東に行って木屋町通を上ると高瀬川の流れる音がここちよい涼しげな場所があります。一の舟入といいます。いい感じで桜が咲きだしていました。

街中のオアシス

 高瀬川は江戸時代に京都と伏見を結ぶ運河として商人の角倉了以によって開かれました。当時、鴨川を船で上って伏見に着いた物資は陸路京都の中心に運ばれていましたが、この運河によって大阪と京都の物資と人の輸送が出きるようになり商業の発達に大いに貢献しました。
 その船だまりとして港の役割をしたのが「舟入」(ふないり)その一番上流に位置するのが「一の舟入」です。北側には島津創業記念館、西側には廣誠院などもあります。街中のオアシスで足をとめて見てはいかがでしょう。

 吉田家は、室町幕府のお抱え医師として財を成しました。角倉了以の父・吉田宗桂は、嵯峨野の天龍寺の財を管理し、幕府の政所代の下で納税方一衆を務め、有力土倉として、成り上がっていきました。戦国期には、洛中帯座の座頭職(西陣織の帯専売組織の代官)でもありました。吉田・角倉一族の拠点、嵯峨野、葛野は、秦氏ゆかりの地。遠い縁を感じます。

 室町幕府の政所代であり、のちに京を追われ、四国土佐の長宗我部元親に仕える蜷川親長や西岡の土豪・革嶋一宣、吉田神社の神官・吉田兼見とも縁戚であったと言われています。本能寺の変の前後、秦氏の流れを組むとも言われる、これら一族の暗躍があったように思えてなりません。

 室町幕府の外交は、五山の僧が担ってきました。貿易や財務は僧侶に不向きだと、莫大な課役を納めつつ、納税方として差配したのが、土倉や酒屋と呼ばれた商人たち。吉田宗桂は、天龍寺の塔頭・妙智院住持の策彦周良と二度の入明を共にして、禅文化を日ノ本にもたらした盟友でした。

哲学の道もまだ二分咲き程度でしょうか。

街中のオアシス


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