2009年09月30日
比叡山
一度は、行ってみたかった比叡山延暦寺、やっと訪れることができました。
「延暦寺」とは、滋賀県大津市坂本本町にあり、標高848mの比叡山全域を境内とする寺院。比叡山の山頂から東麓にかけた境内に点在する東塔、西塔、横川(よかわ)など、三塔十六谷の堂塔の総称です。京の鬼門を守る王城鎮護の霊場であり、伝教大師(最澄)以来の仏法の聖地です。
延暦7年(788)に最澄が一条止観院という草庵を建てたのが始まりです。当初、比叡山寺と呼んでいましたが、最澄没後の弘仁14年(824)嵯峨天皇より「延暦寺」の寺号が与えられ、以後延暦寺と言うようになりました。以来、高野山金剛峰寺と並んで平安仏教の中心でした。

実際行ってみて思ったのは「やっぱり別格だなあ」と。日本の代表的な宗祖の人たちが、ほとんど、ここで修行されている事実です。「日本仏教の母山」と言われる訳がよく分かりました。
日本天台宗の基礎を築いた慈覚大師・円仁、智証大師・円珍、中興の祖、慈恵大師・良源、慈眼大師・天海、「往生要集」を記した恵心僧都・源信。そして、浄土宗の法然、浄土真宗の親鸞、臨済宗の栄西、曹洞宗の道元、日蓮宗の日蓮、時宗の一遍とまさにオールキャストです。

その延暦寺も中世には、戦国の荒波に呑み込まれて生きます。
当時の比叡山は、伝教大師・最澄が天台宗を開いて以来の霊場として、古よりの人々の尊崇を集めていた事実はかわりませんでしたし、神仏習合の中、天台宗は山王神道を生み出し、叡山東麓の日吉大社が守護神とされていました。仏教の聖地であるのみならず、二十一柱の神々がおわす神の聖域でもありました。
それでも当時、延暦寺は四千ともいう僧兵軍団を抱えています。京の町もこの頃は、上京と下京が町になっていましたが。塀などで囲われ、通り筋に当たる場所には木戸の門が設置され、惣構が形成されていましたし、一町ごとに、塀に突き当たるような城塞状態でした。町衆も法華宗と結び、武装していました。
周辺の村々も、郷の周りを、堀や土塁で囲む惣構の環濠集落を形成していたほど。まさに時代は、総武装の時代だったのです。

延暦寺は、近江の六角定頼らと図り、京の法華宗二十一本山を焼き討ちにします。天文の法難です。山門大衆は、上は松ヶ崎城から、下は四条口から、洛中に乱入し、下京はことごとく焼き払われます。女子供も含めて一万を越える死人が出、応仁の大乱をよりひどい惨劇、地獄絵図だったと伝わります。
理由は、洛中の商人が、新興の法華にどんどん帰依し、京の町が法華題目で溢れだしたから。天台宗には脅威だったでしょう。京からの特需も薄くなるといった事情もあったようです。
天文の乱の数年前には、法華一揆の軍勢も、五十年に渡って、仏国のごとしと言われた山科本願寺を、ことごとく焼き払っています。やむなく本願寺は、石山に移りました。
当時は、各々の宗派が皆、大名も顔負けの武力を持っていて、ある意味、それが、当たり前の時代でした。現代の感覚で当時の事象を判断できません。

そこに、織田信長が現れます。
元々、近江の浅井や六角と坂本や堅田に山門領のある延暦寺は、琵琶湖の湖上関や、水運の特需を分け合っていました。坂本の多くの地、三津浜(戸津・今津・志津)や堅田の湖上の関は、山門や本願寺の支配下にあったのです。坂本など湖西には、日ノ本中の延暦寺の荘園からの産物が集まってきていました。下阪本の唐崎や比叡辻には土倉や馬借が軒を並べ、日本有数の大商業都市でした。
織田領が広がっていくのに従って、山門領(比叡山領)も召し上げられていきます。上洛の道筋と近江の権益を抑えたい信長とは、水と油だったのです。

信長の意を受けて、明智光秀は、近江の坂本穴太衆、堅田の殿原衆や猪飼衆、雄琴の和田氏や仰木の八木氏、これらの土豪衆を、味方に引き入れ、財源を断った上で、比叡山延暦寺の焼討ちが行われました。その上で、光秀は坂本に城を築いていきます。
信長は「そや、山門山下の僧衆(延暦寺門徒)は、戒律などお構いなし、天下の嘲弄を恥じず、坂本あたりに住んで高利貸しをし、堂坊は、荒れ放題、わずかに根本中堂の灯明が、数個点っているだけ。酒池肉林に溺れ、俗人と何ら変わるところなし」と判断したのだとか。
また、鉄砲や火薬の調達、南蛮貿易の利を得るために、イエズスの宣教師(当時の)たちを保護してきた信長は、その見返りに、日ノ本の宗派を抑える必要にも迫られていたとも言われます。いずれにせよ、信長は、湖西が山門の支配から離れることを望んでいたのです。
信長の目的は、宗教弾圧ではなく、仏教勢力の武装解除にあったと言われています。

「延暦寺」とは、滋賀県大津市坂本本町にあり、標高848mの比叡山全域を境内とする寺院。比叡山の山頂から東麓にかけた境内に点在する東塔、西塔、横川(よかわ)など、三塔十六谷の堂塔の総称です。京の鬼門を守る王城鎮護の霊場であり、伝教大師(最澄)以来の仏法の聖地です。
延暦7年(788)に最澄が一条止観院という草庵を建てたのが始まりです。当初、比叡山寺と呼んでいましたが、最澄没後の弘仁14年(824)嵯峨天皇より「延暦寺」の寺号が与えられ、以後延暦寺と言うようになりました。以来、高野山金剛峰寺と並んで平安仏教の中心でした。

実際行ってみて思ったのは「やっぱり別格だなあ」と。日本の代表的な宗祖の人たちが、ほとんど、ここで修行されている事実です。「日本仏教の母山」と言われる訳がよく分かりました。
日本天台宗の基礎を築いた慈覚大師・円仁、智証大師・円珍、中興の祖、慈恵大師・良源、慈眼大師・天海、「往生要集」を記した恵心僧都・源信。そして、浄土宗の法然、浄土真宗の親鸞、臨済宗の栄西、曹洞宗の道元、日蓮宗の日蓮、時宗の一遍とまさにオールキャストです。

その延暦寺も中世には、戦国の荒波に呑み込まれて生きます。
当時の比叡山は、伝教大師・最澄が天台宗を開いて以来の霊場として、古よりの人々の尊崇を集めていた事実はかわりませんでしたし、神仏習合の中、天台宗は山王神道を生み出し、叡山東麓の日吉大社が守護神とされていました。仏教の聖地であるのみならず、二十一柱の神々がおわす神の聖域でもありました。
それでも当時、延暦寺は四千ともいう僧兵軍団を抱えています。京の町もこの頃は、上京と下京が町になっていましたが。塀などで囲われ、通り筋に当たる場所には木戸の門が設置され、惣構が形成されていましたし、一町ごとに、塀に突き当たるような城塞状態でした。町衆も法華宗と結び、武装していました。
周辺の村々も、郷の周りを、堀や土塁で囲む惣構の環濠集落を形成していたほど。まさに時代は、総武装の時代だったのです。

延暦寺は、近江の六角定頼らと図り、京の法華宗二十一本山を焼き討ちにします。天文の法難です。山門大衆は、上は松ヶ崎城から、下は四条口から、洛中に乱入し、下京はことごとく焼き払われます。女子供も含めて一万を越える死人が出、応仁の大乱をよりひどい惨劇、地獄絵図だったと伝わります。
理由は、洛中の商人が、新興の法華にどんどん帰依し、京の町が法華題目で溢れだしたから。天台宗には脅威だったでしょう。京からの特需も薄くなるといった事情もあったようです。
天文の乱の数年前には、法華一揆の軍勢も、五十年に渡って、仏国のごとしと言われた山科本願寺を、ことごとく焼き払っています。やむなく本願寺は、石山に移りました。
当時は、各々の宗派が皆、大名も顔負けの武力を持っていて、ある意味、それが、当たり前の時代でした。現代の感覚で当時の事象を判断できません。

そこに、織田信長が現れます。
元々、近江の浅井や六角と坂本や堅田に山門領のある延暦寺は、琵琶湖の湖上関や、水運の特需を分け合っていました。坂本の多くの地、三津浜(戸津・今津・志津)や堅田の湖上の関は、山門や本願寺の支配下にあったのです。坂本など湖西には、日ノ本中の延暦寺の荘園からの産物が集まってきていました。下阪本の唐崎や比叡辻には土倉や馬借が軒を並べ、日本有数の大商業都市でした。
織田領が広がっていくのに従って、山門領(比叡山領)も召し上げられていきます。上洛の道筋と近江の権益を抑えたい信長とは、水と油だったのです。

信長の意を受けて、明智光秀は、近江の坂本穴太衆、堅田の殿原衆や猪飼衆、雄琴の和田氏や仰木の八木氏、これらの土豪衆を、味方に引き入れ、財源を断った上で、比叡山延暦寺の焼討ちが行われました。その上で、光秀は坂本に城を築いていきます。
信長は「そや、山門山下の僧衆(延暦寺門徒)は、戒律などお構いなし、天下の嘲弄を恥じず、坂本あたりに住んで高利貸しをし、堂坊は、荒れ放題、わずかに根本中堂の灯明が、数個点っているだけ。酒池肉林に溺れ、俗人と何ら変わるところなし」と判断したのだとか。
また、鉄砲や火薬の調達、南蛮貿易の利を得るために、イエズスの宣教師(当時の)たちを保護してきた信長は、その見返りに、日ノ本の宗派を抑える必要にも迫られていたとも言われます。いずれにせよ、信長は、湖西が山門の支配から離れることを望んでいたのです。
信長の目的は、宗教弾圧ではなく、仏教勢力の武装解除にあったと言われています。

Posted by 篠田ほつう at 23:42│Comments(0)
│伊波多紀行