2008年01月29日
旧二条城
十三代・足利義輝の宮殿は、「・・・武衛斯波氏の邸宅跡地に立てられ、北は近衛大路(現在の出水通)、南は椹木町通南、東は烏丸通を越え、西は室町通四方に広がっていた。北に隣接して馬場が造られ、多数のものが競馬見物に集まるほどで、御殿は、堀や石垣に囲まれ、主殿(常御所)をはじめ、対面所、小座敷、御末などがあり、茶湯所、風呂、蔵、雑舎、庭などもあった・・・」(本文 時代編)といいます。その宮殿について、ルイス・フロイスはこう記しています。「・・・公方様が住んでいた宮殿は、上京の二条、すなわち第二の通りという名称の地に建てられていた。・・・それはきわめて清潔で、親しみが持て、また快適なものであった。まどの外には、杉、松、密柑、その他我らヨーロッパ人には知られていない種類の、新鮮な緑色の珍しい樹木が植えられた庭園があったが、それはいとも巧妙に育成され手入れされていて、あるいは鐘、あるいは塔、その他種々形で、多くの百合、バラ、雛菊、および種々の色彩の花もあった。人々はそれらを静養と慰安のために植えているのである。・・・厩はいとも上等な材木で造られ、上等な敷物が置かれていて、身分の高い諸侯をそこへ通すこともできるほどであった。・・・」(完訳フロイス日本史・中公文庫)。永禄の変で焼失するのですが、十五代・義昭を奉じて入洛を果たした織田信長によって、同じ場所に義昭のための二条城が建設をされます。現在その跡地は、平安女学院となっております。


義昭の二条御所建設には、「建築用の石が欠乏していたので、彼は多数の石像を倒し、頭に縄をつけて工事場に引かしめた。都の住民はこれらの偶像を畏敬していたので、それは彼らに驚嘆と恐怖の念を生ぜしめた。・・・」といいまた、みずから「信長はかんなを手にして作業を指図した・・・」といいます。また建築中「建築を見物しようと望むものは、男も女もすべて草履をぬぐこともなく彼の前を通る自由が与えられた。・・・少なくとも二・三年はかかると思われたものを、彼はほとんど七十日間で完成した・・・」といいます。(完訳・フロイス日本史 中公文庫)京都御所の椹木町口にはその旧二条城の石垣の一部といわれる遺構がございます。



義昭の二条御所建設には、「建築用の石が欠乏していたので、彼は多数の石像を倒し、頭に縄をつけて工事場に引かしめた。都の住民はこれらの偶像を畏敬していたので、それは彼らに驚嘆と恐怖の念を生ぜしめた。・・・」といいまた、みずから「信長はかんなを手にして作業を指図した・・・」といいます。また建築中「建築を見物しようと望むものは、男も女もすべて草履をぬぐこともなく彼の前を通る自由が与えられた。・・・少なくとも二・三年はかかると思われたものを、彼はほとんど七十日間で完成した・・・」といいます。(完訳・フロイス日本史 中公文庫)京都御所の椹木町口にはその旧二条城の石垣の一部といわれる遺構がございます。

Posted by 篠田ほつう at 12:39│Comments(1)
│外国人宣教師が見た戦国京都(ガラシャ編外伝)
この記事へのコメント
いつもブログを拝見させてもらってます。
タクシードライバーから見た京都情報って面白いですよね。
これからも、京都の裏情報などをブログに上げて貰えたら嬉しいです。
よろしくお願いします。
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Posted by デルピエ命 at 2008年01月30日 19:48