2007年12月18日
硝石ルートを追え
昨日放映の「敵は本能寺にあり」中々、おもしろかったですね。「光秀謀反の裏には公家に対する信長の政策があった。光秀の本意は、信長が朝廷を超え絶対君主を目指していたことを危惧し、朝廷の後押しのもと、信長の野望から朝廷と従来の秩序を守るために、立ち上がり、本能寺に先制攻撃を加えた」といったことをベースに、家康、秀吉、近衛や吉田など公家衆の動き、宣教師たち、その他の諸説をうかがわせる要素を盛り込む作者の努力がうかがえましたね。ただやはり135分では表しきれなかったというところでしょうか。当時のイエズス会や南蛮貿易、堺、京の商人たちの動きなど触れられなかったのが残念です。
当時の本能寺は、現在の堀川高校付近・油小路蛸薬師から四条西洞院あたりいったいの広大な寺域を領しておりました。


戦国時代の武将というのは、当時のイエズス派の宣教師たちの背後にあった、火薬輸入商人の鉄砲用火薬欲しさに、聖書も知らず、ドリチナ・キリシタンの一句だけを口移しに習って入信したとも言われています。八切史観といわれた八切止夫さんの著作には「天文12年に日本へ鉄砲が伝来し、万国共通の火器作戦の時代が来た。だから国産で雑賀や国友で和銃も作られたが、さて弾丸をとばす火薬材料の75パーセントを占める硝石は、日本で産出されなかった。そこで信長は、堺をその輸入港としてマカオに頼り、のち秀吉は備中備後の帰化人部落を通して、比律賓や朝鮮から輸入。家康は、オランダ人によって長崎出島を、その門戸とした。つまり徳川の[鎖国]というのは、なにも天主教禁圧が主ではなく、彼等がエージェントして、当時で言う[煙硝]をもちこみ、それを他の大名が入手するのを防ぐための[硝石独占輸入方式]であって、このため各大名は[鉄砲があっても火薬が入手できない]ために反乱できず、よって幕末までは[徳川300年の泰平]が続いたのである。』 」とあります。

当時の本能寺は、現在の堀川高校付近・油小路蛸薬師から四条西洞院あたりいったいの広大な寺域を領しておりました。


戦国時代の武将というのは、当時のイエズス派の宣教師たちの背後にあった、火薬輸入商人の鉄砲用火薬欲しさに、聖書も知らず、ドリチナ・キリシタンの一句だけを口移しに習って入信したとも言われています。八切史観といわれた八切止夫さんの著作には「天文12年に日本へ鉄砲が伝来し、万国共通の火器作戦の時代が来た。だから国産で雑賀や国友で和銃も作られたが、さて弾丸をとばす火薬材料の75パーセントを占める硝石は、日本で産出されなかった。そこで信長は、堺をその輸入港としてマカオに頼り、のち秀吉は備中備後の帰化人部落を通して、比律賓や朝鮮から輸入。家康は、オランダ人によって長崎出島を、その門戸とした。つまり徳川の[鎖国]というのは、なにも天主教禁圧が主ではなく、彼等がエージェントして、当時で言う[煙硝]をもちこみ、それを他の大名が入手するのを防ぐための[硝石独占輸入方式]であって、このため各大名は[鉄砲があっても火薬が入手できない]ために反乱できず、よって幕末までは[徳川300年の泰平]が続いたのである。』 」とあります。

Posted by 篠田ほつう at 13:51│Comments(0)
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