2008年04月08日
石清水八幡宮
石清水八幡宮は、都の北東(表鬼門)にある比叡山延暦寺と対峙して南西(裏鬼門)を守護する王城守護の神、王権・水運の神として崇敬を受け、伊勢神宮に次ぐ第二の宗廟とされ天元2年(979)円融天皇の行幸以後、天皇・上皇・法皇などの参詣は数百回に上りました。また、武神・弓矢の神・必勝の神として崇敬され、源氏をはじめ足利氏・徳川氏・今川氏など、多くの清和源氏・村上源氏が氏神として信仰したと申します。
織田信長は天正7年(1579)社殿修理のとき本殿の木の樋(とい)を金で鋳たものに変え、豊臣秀頼は慶長11年(1606)社殿の全てを新しく造り替えております。その後も徳川家の手厚い保護を受けたのでございます。男山に登れば、北は京都盆地(桂川)、東は南山城(宇治川・木津川)、西は大阪平野(淀川・大阪湾)が眺望できます。

淀川には「淀舟」というのがあり、これは石清水八幡宮の神人の独占事業でした。神人(じにん)とは、神社に所属してその神社の権威などを背景に物資の流通や販売を扱う人々でございます。
例えば有名な大山崎の油座は、石清水八幡宮に対して、たとえば八幡宮が淀川に船を出すときのお手伝い(奉仕)や、八幡宮が使う油を献上する(献納)を行う代わりに、八幡宮から関所の通行料(関銭)や港の使用料(津料)の免除、油の原料である荏胡麻(えごま)を優先的に買い付ける、そして油を、定期市で独占的に販売する権利を得たりしたと申します。

境内にはアメリカの発明王・トーマスエジソンの石碑がございます。かつて、エジソンは電球のフィラメントにする材料に苦労しました。ある時、日本の扇子に使われていた竹を蒸して、炭素の繊維を作りそれをフィラメントにする事に思いつきました。それが見事に成功し、何時間も電球は輝き続けたのでございます。
電球を商品化するため、多量の竹をもとめて、日本に照会し、当時の京都府知事から竹なら「八幡の竹」と推薦されたのだとか。交流電気が発展するまでの短い間ではありましたが、エジソンの直流電気による電灯は百万個以上も生産され、アメリカやヨーロッパの夜を明るく照らしたのでございます。

織田信長は天正7年(1579)社殿修理のとき本殿の木の樋(とい)を金で鋳たものに変え、豊臣秀頼は慶長11年(1606)社殿の全てを新しく造り替えております。その後も徳川家の手厚い保護を受けたのでございます。男山に登れば、北は京都盆地(桂川)、東は南山城(宇治川・木津川)、西は大阪平野(淀川・大阪湾)が眺望できます。

淀川には「淀舟」というのがあり、これは石清水八幡宮の神人の独占事業でした。神人(じにん)とは、神社に所属してその神社の権威などを背景に物資の流通や販売を扱う人々でございます。
例えば有名な大山崎の油座は、石清水八幡宮に対して、たとえば八幡宮が淀川に船を出すときのお手伝い(奉仕)や、八幡宮が使う油を献上する(献納)を行う代わりに、八幡宮から関所の通行料(関銭)や港の使用料(津料)の免除、油の原料である荏胡麻(えごま)を優先的に買い付ける、そして油を、定期市で独占的に販売する権利を得たりしたと申します。

境内にはアメリカの発明王・トーマスエジソンの石碑がございます。かつて、エジソンは電球のフィラメントにする材料に苦労しました。ある時、日本の扇子に使われていた竹を蒸して、炭素の繊維を作りそれをフィラメントにする事に思いつきました。それが見事に成功し、何時間も電球は輝き続けたのでございます。
電球を商品化するため、多量の竹をもとめて、日本に照会し、当時の京都府知事から竹なら「八幡の竹」と推薦されたのだとか。交流電気が発展するまでの短い間ではありましたが、エジソンの直流電気による電灯は百万個以上も生産され、アメリカやヨーロッパの夜を明るく照らしたのでございます。

Posted by 篠田ほつう at 07:09│Comments(0)
│京都時空観光案内 ガラシャの巻