2008年01月23日
謎の大がめ?紋屋図子(紋屋町通り)
西陣紋屋町通り、智恵光院通りを今出川から少しあがって、かつて源義経が奥州への旅立ちの安全を祈願したという首途八幡宮を横目にさらに上がると「やけずの寺」「夜鳴き止めの松」で知られる本隆寺、その向かい側の路地から大宮通りへ抜ける通りがそれでございます。さて三上家路地という昔の職人長屋がありまして、現在は普通の住居となっているのですが、その景観から時代劇やドラマの撮影によく使われます。真ん中の陶芸教室の前にある大がめがこれ。先日放映の京の芸妓を描いたドラマで井上真央ちゃんが出てきたのもこれだし、京都新迷宮案内のスペシャルで橋爪功さんや杉田ひろ子さんがひじをついたりしたのもこの大がめであります。はてさていつの時代のものでしょうか?

西陣は、大陸伝来の高機(たかはた)という技術を取り入れ、先に染めた糸を使って色柄や模様を織り出す紋織(もんおり)を可能にし、朝廷からも認められ、のちには秀吉などによる保護を受けたと申します。江戸時代になって、世の中が安定して町人文化が台頭してくると、高級織物の産地である西陣はさらに繁栄し、大きな糸問屋や織屋が立ちならぶ織屋街が形成され、高級織物はもとより、ちりめんや縞に至るまで織り出し、その勢いは他を圧倒していたんだそうでございます。・・・・着物パレードの後、二人は紋屋町通りにやってきた。かつては御寮織物司といわれた井関家をはじめとする六家があり、織物業が最も盛んだったという。最近では、機織の音はあまり聞こえない。六家で唯一、職人長屋町家の路地が現存するのが三上家で、現在はそこに若手アーティストたちが住み着いていたり、蜂蜜屋さんがあったりする・・・(本文 現代編)

・・・「とんとんからり、とんからり」と騒がしいほどの機織の音が、町家の立ち並ぶ狭い路地の両側から一定の拍子を刻んでこだまする。「てて様、なんやうるさおすなあ」「このあたりはな、機織の中心やしなあ、ようけの織屋はんがおますやろ」二人は紋屋図子にさしかかる。コ型に並んだ家々、ところどころに革製の御寮織物司とかかれた標識が掲げられている。路地の奥でもっとも立派な町家からでてきた番頭を呼び止める仁右衛門。「あっすんまへん、井関様んとこの番頭はんですなあ」・・・「この通りはなあ、先先代の井関七右衛門宗麟様がこのどんつきの家を買い取って、通りが抜けたゆうえ。そやさかいその屋号から紋屋図子いうんやな。お内裏様やら宮様がたのお召し物をつくってるんえ」(本文 時代編)


西陣は、大陸伝来の高機(たかはた)という技術を取り入れ、先に染めた糸を使って色柄や模様を織り出す紋織(もんおり)を可能にし、朝廷からも認められ、のちには秀吉などによる保護を受けたと申します。江戸時代になって、世の中が安定して町人文化が台頭してくると、高級織物の産地である西陣はさらに繁栄し、大きな糸問屋や織屋が立ちならぶ織屋街が形成され、高級織物はもとより、ちりめんや縞に至るまで織り出し、その勢いは他を圧倒していたんだそうでございます。・・・・着物パレードの後、二人は紋屋町通りにやってきた。かつては御寮織物司といわれた井関家をはじめとする六家があり、織物業が最も盛んだったという。最近では、機織の音はあまり聞こえない。六家で唯一、職人長屋町家の路地が現存するのが三上家で、現在はそこに若手アーティストたちが住み着いていたり、蜂蜜屋さんがあったりする・・・(本文 現代編)

・・・「とんとんからり、とんからり」と騒がしいほどの機織の音が、町家の立ち並ぶ狭い路地の両側から一定の拍子を刻んでこだまする。「てて様、なんやうるさおすなあ」「このあたりはな、機織の中心やしなあ、ようけの織屋はんがおますやろ」二人は紋屋図子にさしかかる。コ型に並んだ家々、ところどころに革製の御寮織物司とかかれた標識が掲げられている。路地の奥でもっとも立派な町家からでてきた番頭を呼び止める仁右衛門。「あっすんまへん、井関様んとこの番頭はんですなあ」・・・「この通りはなあ、先先代の井関七右衛門宗麟様がこのどんつきの家を買い取って、通りが抜けたゆうえ。そやさかいその屋号から紋屋図子いうんやな。お内裏様やら宮様がたのお召し物をつくってるんえ」(本文 時代編)

Posted by 篠田ほつう at 15:18│Comments(0)
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