2008年05月01日
隠密だったのかな?
詩仙堂で霧島つつじが綺麗に花開いています。

石川丈山(いしかわ じょうざん、石川喜右衛門尉重之)は、江戸時代初期の文人で、もとは武士、漢詩の代表的人物で、儒学・書道・茶道・庭園設計にも精通していたと申します。幕末の『煎茶綺言』には、「煎茶家系譜」の初代に石川丈山が記載されており、煎茶の祖とも言われておりまる。徳川家康に仕え、大坂夏では一番乗りで功をあげたつもりが、先陣争いを禁止していた軍律違反として、蟄居の身となり、武士をやめて妙心寺に入門するのでございます。その後、相国寺の近くに睡竹堂をつくり、さらに4年後、洛北の一乗寺村(比叡山西麓)に凹凸窠(詩仙堂)を1641年(寛永18年)に建てて隠棲生活をはじめたのでございます。

煎茶に親しんだと伝えられると共に、作庭に長じたとも言われ東本願寺只穀邸(渉成園)の庭園は石川丈山の手になるものと伝えられておりまする。偉丈夫で身の丈は190cmあったといわれる丈山は、実は鷹が峰の本阿弥光悦、八幡の松花堂昭乗と共に、幕府の意を受けて後水尾上皇や朝廷の監視をしていた隠密であったのでは? との説もございます。

石川丈山(いしかわ じょうざん、石川喜右衛門尉重之)は、江戸時代初期の文人で、もとは武士、漢詩の代表的人物で、儒学・書道・茶道・庭園設計にも精通していたと申します。幕末の『煎茶綺言』には、「煎茶家系譜」の初代に石川丈山が記載されており、煎茶の祖とも言われておりまる。徳川家康に仕え、大坂夏では一番乗りで功をあげたつもりが、先陣争いを禁止していた軍律違反として、蟄居の身となり、武士をやめて妙心寺に入門するのでございます。その後、相国寺の近くに睡竹堂をつくり、さらに4年後、洛北の一乗寺村(比叡山西麓)に凹凸窠(詩仙堂)を1641年(寛永18年)に建てて隠棲生活をはじめたのでございます。

煎茶に親しんだと伝えられると共に、作庭に長じたとも言われ東本願寺只穀邸(渉成園)の庭園は石川丈山の手になるものと伝えられておりまする。偉丈夫で身の丈は190cmあったといわれる丈山は、実は鷹が峰の本阿弥光悦、八幡の松花堂昭乗と共に、幕府の意を受けて後水尾上皇や朝廷の監視をしていた隠密であったのでは? との説もございます。
Posted by 篠田ほつう at 16:49│Comments(0)
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