2008年02月25日
梅の花 京都御苑
京都御苑の梅林に行ってみました。今年は寒さが厳しかったこともあって開花が遅れているようですね。ここも色違いのロウバイが二本咲き始めていただけでした。


さて、現在の京都御苑内には、かつて200軒を越える宮家や公家の屋敷がひしめいておりました。しかし、明治の首都移転とともに留守居役の冷泉家を残して、ほとんどの公家が移転してしまい。その屋敷のほとんども取り壊されたのでございます。近衛、九条、鷹司、一条などの五摂家の邸宅もかつて御苑内にあったのでございます。


さて話は変わって、寛文四年の(一六六四)新春、かつての三代家光正室の鷹司孝子・本理院は、江戸下降より実に四十一年ぶりに上洛を果たし、仙洞御所の御座所にて後水尾上皇に謁見をしていた。おりしも、小雨の後の庭園では、淡い紅や白の花の形を、笠を頭にかぶった踊り子がやぐらを囲んで踊る姿に見立てて名づけられたというオドリコソウの花が咲き始・・・・・本理院「仙洞様におかれましてはご機嫌うるわしゅう・・」おりゐの帝はすでに落飾して法皇となっていた。「孝子、息災でごじゃったか?それは良い」「いたって健勝にて、江戸では、大猷院(家光)逝去ののち、しばらくしての仙洞様の突然のご落飾、もっぱらの噂でございましたゆえ、当代様へのご抗議かと孝子はご心中、いかばかりか按じておりました。さらには昨年よりのかのご条目(禁裏御所御定八箇条)、なにやら一層の禁裏様へのご不自由をおかけいたしておる由、悲しきことにございまする・・」「高家肝煎(吉良家)のお目付け(監視)のもとで見ざる言わざる聞かざるでごじゃるゆえなあ、麿もいささか疲れもうした」
その後、理光院は、女院御所にて、東福門院和子との対面を果たした。上の間に上がるとその日、いささか清楚な紫衣を羽織った東福門院は、思わず理光院にかけより、手をとった。「孝子殿、ほんに、ほんに久しいのお、息災であったか?」「はい、中宮、いえ、女院さまのおとりなしにて、大猷院へ嫁ぎましてより、四十と一つ歳を数えまする」「おお、そうでありましたかのお、それほどになりまするのか・・・・・(本文 時代編)
御苑内からの雪大文字、夏の五山の送り火もここから良く見えますよ。


さて、現在の京都御苑内には、かつて200軒を越える宮家や公家の屋敷がひしめいておりました。しかし、明治の首都移転とともに留守居役の冷泉家を残して、ほとんどの公家が移転してしまい。その屋敷のほとんども取り壊されたのでございます。近衛、九条、鷹司、一条などの五摂家の邸宅もかつて御苑内にあったのでございます。


さて話は変わって、寛文四年の(一六六四)新春、かつての三代家光正室の鷹司孝子・本理院は、江戸下降より実に四十一年ぶりに上洛を果たし、仙洞御所の御座所にて後水尾上皇に謁見をしていた。おりしも、小雨の後の庭園では、淡い紅や白の花の形を、笠を頭にかぶった踊り子がやぐらを囲んで踊る姿に見立てて名づけられたというオドリコソウの花が咲き始・・・・・本理院「仙洞様におかれましてはご機嫌うるわしゅう・・」おりゐの帝はすでに落飾して法皇となっていた。「孝子、息災でごじゃったか?それは良い」「いたって健勝にて、江戸では、大猷院(家光)逝去ののち、しばらくしての仙洞様の突然のご落飾、もっぱらの噂でございましたゆえ、当代様へのご抗議かと孝子はご心中、いかばかりか按じておりました。さらには昨年よりのかのご条目(禁裏御所御定八箇条)、なにやら一層の禁裏様へのご不自由をおかけいたしておる由、悲しきことにございまする・・」「高家肝煎(吉良家)のお目付け(監視)のもとで見ざる言わざる聞かざるでごじゃるゆえなあ、麿もいささか疲れもうした」
その後、理光院は、女院御所にて、東福門院和子との対面を果たした。上の間に上がるとその日、いささか清楚な紫衣を羽織った東福門院は、思わず理光院にかけより、手をとった。「孝子殿、ほんに、ほんに久しいのお、息災であったか?」「はい、中宮、いえ、女院さまのおとりなしにて、大猷院へ嫁ぎましてより、四十と一つ歳を数えまする」「おお、そうでありましたかのお、それほどになりまするのか・・・・・(本文 時代編)

Posted by 篠田ほつう at 19:57│Comments(0)
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