2008年03月10日
豊臣の建立で徳川の菩提寺?
現在も三十三間堂の東隣に位置する養源院は、文禄三年(1594)にかのお茶々殿・淀君が父、浅井長政の追善のために、その長政のいとこにあたる成伯法印を開山に建立した寺院でございます。その後、火災で焼失するのですが、徳川期になって伏見城の遺構を移し、この寺を再建したのはやはり長政とお市の娘、二代将軍秀忠正室・お江の方でございました。それゆえもとは豊臣氏が建てた寺院でありながら、当時の徳川家の京都における菩提寺となっていたと申します

このお寺には、俵屋宗達の襖絵などもあり、関が原の前哨戦でもあった伏見城落城の折、自決した徳川家康が家臣・鳥居元忠らの血痕を残す血天井も使われております。
・・・そこで家光の御台所・鷹司孝子名代として、養源院への参詣におとづれた大奥中年寄・朝比奈が秘密裏に女院・東福門院和子に拝謁していた。参詣はもちろん表向き、朝比奈は実は、かつて二代将軍・秀忠依頼の忍びのもの、当時の幕府のCIA長官といったところだろうか、中根壱岐守正盛の廻国者から和子が譲り受け、孝子付きの侍女として大奥に送り込んだ手のものであった・・・(本文・時代編)

このお寺には、俵屋宗達の襖絵などもあり、関が原の前哨戦でもあった伏見城落城の折、自決した徳川家康が家臣・鳥居元忠らの血痕を残す血天井も使われております。
・・・そこで家光の御台所・鷹司孝子名代として、養源院への参詣におとづれた大奥中年寄・朝比奈が秘密裏に女院・東福門院和子に拝謁していた。参詣はもちろん表向き、朝比奈は実は、かつて二代将軍・秀忠依頼の忍びのもの、当時の幕府のCIA長官といったところだろうか、中根壱岐守正盛の廻国者から和子が譲り受け、孝子付きの侍女として大奥に送り込んだ手のものであった・・・(本文・時代編)
Posted by 篠田ほつう at 16:26│Comments(0)
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