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2008年02月02日

神官が隠密?

 今年も節分ですね!京都では壬生寺やこの吉田神社などが有名です。あと祇園界隈でのお化けもこの時期に登場します。旧暦での大晦日にあたることもあって、境内では、河道屋さんの年越しそばなども出店されていました。

神官が隠密?

神官が隠密?

節分といえば、主に西日本でイワシを食べる習慣もあります。これは、邪気を払うためにイワシの頭を門口にさした習慣に由来しているもので、柊の針で鬼の眼を刺し、イワシを焼く激しい煙と臭いで邪気を払うのだとか。

神官が隠密?

 さて、吉田神社は、室町期に吉田兼倶の完成した唯一神道の教説にもとづき、江戸時代、久しく神道の総本山の位置を占め、全国の祠職を傘下に吸収し祠職の裁許状を発行,絶大なる権威を有していました。吉田家を利用して神道界を統制しようとした徳川幕府の庇護の下、吉田家は、「諸社祢宜神主法度」を与えられて、幕府の神道政策の実行部隊となったのでございます。その発展には室町期から戦国時代にかけての一族の暗躍があったともいわれています。
 吉田兼右(1516~1573)は、大内善隆(周防・山口藩)と結び神道の伝授にあたり、天文の末年(1554年)には求めに応じ周防に下り、北九州まで足を伸ばし、地方の諸神社にも勢力を伸ばし九州の島津・大友等の有力大名とも交わっており、義輝の鉄砲はじめ、北路貿易ルートへのかかわりも言われております。13代将軍・足利義輝の暗殺ののち、細川藤孝や和田惟政らが覚慶(後の15代義昭)の擁立に動きますが、義昭の従五位左馬頭への叙任の斡旋をはじめ、手助けしたのも兼右・兼見(兼見卿記の著者)親子でした。

神官が隠密?

 兼見は信長、光秀とも親交を深めており、本能寺の変の後には、安土城へ信長を討った明智光秀の戦勝祝いの勅旨として派遣されたのもこの人でした。朝廷や近衛前久とのパイプ役を担ったとの見方もありますが、いずれにせよ、この時期、何らかの大きな役割を果たしたことは間違いないようです。


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