2008年03月02日
北野の梅
北野天満宮の梅が徐々に見ごろとなってきました。今日は日差しも強く、温かかったのでかなりの人の出でした。

さて天下人となった豊臣秀吉は、天正15年(1587)の十月にこの北野天満宮の境内で、京都の朝廷や民衆に自己の権威を示すために聚楽第造営と併行してのちに北野大茶湯(きたのおおちゃのゆ)と呼ばれた大規模な茶会を開催いたします。開催にあたっては、諸大名・公家や京都・大坂・堺の茶人などは裕に及ばず、早くから街中に触れを出し、・茶湯執心の者は若党、町人、百姓を問わず、釜一つ、釣瓶一つ、呑物一つ、茶道具が無い物は替わりになる物でもいいので持参して参加すること・と身分の上下を問わず、参加を呼びかけたため、当日は境内所狭しと数奇屋が並び、一千人に余る参加があったと申します。秀吉は黄金の茶室を持ち込み、・似たり茄子・など自慢の名物を陳列したのでございます。

話しは変わりますが、境内には上方落語の祖といわれる露の五郎兵衛の石碑もございます。五郎兵衛は五代将軍綱吉の天和の頃、この北野天満宮や四条河原や百万遍などで口演し、都の名物男といわれたのだとか。残した噺は三百数十話、現行落語の原話が多数含まれていると申します。

・・・外にでると、筵をしいて、その上に茵(しとね・薄畳を芯にして布のへりをつけた正方形の敷物)をひき、扇子を片手に、なにやら面白げな坊主が辻話をしている。「ある人、鶴の絵の屏風を見て、さても書いたり。鴻(こうのとり)にはちと足が長いといえば、はて、わけもない。あれは鷺でこそあれといえば、亭主聞きかね、この絵は鶴でござるといふ。この者聞て、人をあほにしたこといはしやんな。鶴ならば蝋燭立をくわへているはづじゃ(元禄期軽口本集 近世笑話集 岩波文庫)」「ほほほっほ、ははっ・・・」「今度は笑ろうてはるはあ、ほんにせわしないひい様じゃあ・・」「見るものみながお初のことやよってになあ。わもじはうれしゅうおすのえ・・」辻話をしていたのはのちに上方落語の祖といわれる露の五郎兵衛、若き日のその人であった・・・(桂昌院編本文 時代編)

さて天下人となった豊臣秀吉は、天正15年(1587)の十月にこの北野天満宮の境内で、京都の朝廷や民衆に自己の権威を示すために聚楽第造営と併行してのちに北野大茶湯(きたのおおちゃのゆ)と呼ばれた大規模な茶会を開催いたします。開催にあたっては、諸大名・公家や京都・大坂・堺の茶人などは裕に及ばず、早くから街中に触れを出し、・茶湯執心の者は若党、町人、百姓を問わず、釜一つ、釣瓶一つ、呑物一つ、茶道具が無い物は替わりになる物でもいいので持参して参加すること・と身分の上下を問わず、参加を呼びかけたため、当日は境内所狭しと数奇屋が並び、一千人に余る参加があったと申します。秀吉は黄金の茶室を持ち込み、・似たり茄子・など自慢の名物を陳列したのでございます。

話しは変わりますが、境内には上方落語の祖といわれる露の五郎兵衛の石碑もございます。五郎兵衛は五代将軍綱吉の天和の頃、この北野天満宮や四条河原や百万遍などで口演し、都の名物男といわれたのだとか。残した噺は三百数十話、現行落語の原話が多数含まれていると申します。

・・・外にでると、筵をしいて、その上に茵(しとね・薄畳を芯にして布のへりをつけた正方形の敷物)をひき、扇子を片手に、なにやら面白げな坊主が辻話をしている。「ある人、鶴の絵の屏風を見て、さても書いたり。鴻(こうのとり)にはちと足が長いといえば、はて、わけもない。あれは鷺でこそあれといえば、亭主聞きかね、この絵は鶴でござるといふ。この者聞て、人をあほにしたこといはしやんな。鶴ならば蝋燭立をくわへているはづじゃ(元禄期軽口本集 近世笑話集 岩波文庫)」「ほほほっほ、ははっ・・・」「今度は笑ろうてはるはあ、ほんにせわしないひい様じゃあ・・」「見るものみながお初のことやよってになあ。わもじはうれしゅうおすのえ・・」辻話をしていたのはのちに上方落語の祖といわれる露の五郎兵衛、若き日のその人であった・・・(桂昌院編本文 時代編)
Posted by 篠田ほつう at 19:53│Comments(0)
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