2008年05月09日
桂川
桂川は、古くより、暴れ川と称されました。 京北の流域にかけては上桂川、南丹市の園部町に入ると桂川、八木町から亀岡市にかけては大堰川(おおいがわ)、保津峡から嵐山までは保津川と呼ばれ、嵐山から合流地点は再び桂川と称されますが、行政上の表記では、全流域において桂川の表記に統一されておるようでございます。
黒川道裕の記した「雍州府志」では、川の西に桂の里が有ることから嵯峨より南の下流域を桂川と呼ぶようになったとあり、それより上流にあたる嵐山流域をやはり大井川としているようでございます。
梅雨時期や台風シーズンには、きまって洪水を引き起こし、流路もそのたびに変わったとか。しかし、その暴れぶりのお陰で、その流域は京都盆地でももっとも肥沃な土地だったとも申します。
戦国時代、畿内を制することをもくろんだ覇者たちにとって、桂川流域を制することは絶対条件だったのでございます。

京都盆地流入以南の桂川は、古くは葛野川(かどの)と呼ばれておりました。洪水の不安を解消できれば、桂川流域が有数の穀倉地帯になると、嵯峨や松尾などの桂川流域を支配していた秦氏が、6世紀頃に桂川に葛野大堰を築いたと言われております。とくに下嵯峨から松尾にかけて、桂川東岸に築かれた堤は、罧原堤(ふしはら)と呼ばれ、「秦氏本系帳」によると、これら堰堤完成の際に、それまでの葛野川から大堰川と呼ばれるようになったと申します。
平安京造営の時、現在の右京区京北町の木材を京都に運搬するなど、桂川の流れは丹波と山城、摂津の木材輸送に使われておりましたが、17世紀にはいると嵐山の豪商・角倉了以が桂川を開削し、現在の丹波町与木村から下流の淀や大坂まで通じることになったため、船運が発達したのでございます。園部、保津、山本、嵐山、梅津、桂津などは湊町として栄えたと申します。
黒川道裕の記した「雍州府志」では、川の西に桂の里が有ることから嵯峨より南の下流域を桂川と呼ぶようになったとあり、それより上流にあたる嵐山流域をやはり大井川としているようでございます。
梅雨時期や台風シーズンには、きまって洪水を引き起こし、流路もそのたびに変わったとか。しかし、その暴れぶりのお陰で、その流域は京都盆地でももっとも肥沃な土地だったとも申します。
戦国時代、畿内を制することをもくろんだ覇者たちにとって、桂川流域を制することは絶対条件だったのでございます。

京都盆地流入以南の桂川は、古くは葛野川(かどの)と呼ばれておりました。洪水の不安を解消できれば、桂川流域が有数の穀倉地帯になると、嵯峨や松尾などの桂川流域を支配していた秦氏が、6世紀頃に桂川に葛野大堰を築いたと言われております。とくに下嵯峨から松尾にかけて、桂川東岸に築かれた堤は、罧原堤(ふしはら)と呼ばれ、「秦氏本系帳」によると、これら堰堤完成の際に、それまでの葛野川から大堰川と呼ばれるようになったと申します。
平安京造営の時、現在の右京区京北町の木材を京都に運搬するなど、桂川の流れは丹波と山城、摂津の木材輸送に使われておりましたが、17世紀にはいると嵐山の豪商・角倉了以が桂川を開削し、現在の丹波町与木村から下流の淀や大坂まで通じることになったため、船運が発達したのでございます。園部、保津、山本、嵐山、梅津、桂津などは湊町として栄えたと申します。
Posted by 篠田ほつう at 11:13│Comments(0)
│伊波多紀行