2007年11月08日
公家の家
お玉と母親のおなあは、当時、従一位摂政の二条家に使えることとなりました。邸宅は現在の同志社女子大学キャンパス内にあったといわれています。明治時代になって、ほとんどの公家は天皇に同行して東京に移り、公家町は消滅、跡地は外周に石塁を積んで御苑に整備されました。留守居役を預かった冷泉家は京に残り、近世公家住宅の唯一の遺構となっています。年に一度の特別公開に行ってまいりました。



・・・いつもは気軽に乗り越えていたこの塀も、正面から入るとずいぶんと敷居の高いことであった。魔よけのしゃぐまの飾られた土間を通り、内玄関までに座敷が一つあって、それを横目に、なにやら大きなあひるだろうか(実は孔雀)が描かれた金屏風の飾られた内玄関を上がる。大玄関から奥を覗くといくつもの襖があり、その奥に広く整備された中庭が垣間見れる。その大玄関の東隣りの使者の間(身分の低いものを通す間)にお玉は通された。小庭には橘の木と紅梅の木が植えてある。
待っていると、案内とは別の女官が現われ、さらに奥へ案内される。いくつかのふすまを隔てて、そこは上客を迎える「上の間」であった。よくは分からぬがお玉は、不思議に思った。「あては罪人やのに、こんなに奥へ行ってええのかえ?」・・・(時代編本文より)
・・・いつもは気軽に乗り越えていたこの塀も、正面から入るとずいぶんと敷居の高いことであった。魔よけのしゃぐまの飾られた土間を通り、内玄関までに座敷が一つあって、それを横目に、なにやら大きなあひるだろうか(実は孔雀)が描かれた金屏風の飾られた内玄関を上がる。大玄関から奥を覗くといくつもの襖があり、その奥に広く整備された中庭が垣間見れる。その大玄関の東隣りの使者の間(身分の低いものを通す間)にお玉は通された。小庭には橘の木と紅梅の木が植えてある。
待っていると、案内とは別の女官が現われ、さらに奥へ案内される。いくつかのふすまを隔てて、そこは上客を迎える「上の間」であった。よくは分からぬがお玉は、不思議に思った。「あては罪人やのに、こんなに奥へ行ってええのかえ?」・・・(時代編本文より)
Posted by 篠田ほつう at 11:57│Comments(0)
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