2007年12月20日
大石隠棲の地は何故?
赤穂退去後、内蔵助は家族とともに京都山科に隠棲し、ここから旧赤穂藩士たちと連絡をとったとされています。内蔵助が山科を選んだのは大石家の親戚進藤源四郎の一族進藤長之(近衛家家臣)が管理していた土地だったためといわれています。現在の大石神社あたりは近衛家の配慮地であったと推定され、大石は近衛家と縁戚続きであったと思われます。旧宅跡は大石神社と地続きの岩屋寺にございます。


さて、忠臣蔵では大石内蔵助は祇園で連日放蕩三昧に興じるが、それは仇討ちの真意を隠し、吉良側を欺くためだったとされておりますが、実際には大石内蔵助は赤穂時代から遊び好きで妾を囲い、遊興の浪費が絶えなかったといいます。山科に移ってからも伏見の遊女のもとに通いつめ、島原、大阪新町でも遊び。若い妾まで囲い、当時、妻のりくは家計の窮状を豊岡の実家に訴えております。りくを離別して幼い子どもたちと豊岡へ帰したのは、実家側の強い訴えだったとか。放蕩三昧の大石内蔵助が、本気で仇討ちを考えているとは人々は思いもしなかったともいわれております。真相はやはり闇の中でしょうか?



さて、忠臣蔵では大石内蔵助は祇園で連日放蕩三昧に興じるが、それは仇討ちの真意を隠し、吉良側を欺くためだったとされておりますが、実際には大石内蔵助は赤穂時代から遊び好きで妾を囲い、遊興の浪費が絶えなかったといいます。山科に移ってからも伏見の遊女のもとに通いつめ、島原、大阪新町でも遊び。若い妾まで囲い、当時、妻のりくは家計の窮状を豊岡の実家に訴えております。りくを離別して幼い子どもたちと豊岡へ帰したのは、実家側の強い訴えだったとか。放蕩三昧の大石内蔵助が、本気で仇討ちを考えているとは人々は思いもしなかったともいわれております。真相はやはり闇の中でしょうか?

Posted by 篠田ほつう at 15:37│Comments(0)
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