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Posted by 京つう運営事務局 at

2007年11月03日

やっぱり祇園!

 さて、八百玉の娘・玉枝とコスモグループの御曹司・吉綱が交際して数ヶ月、その春にデートにやってきたのが祇園界隈でした。また時代編でお玉と二条家の順子姫がおとづれたのも寛永期の祇園村でした。この日は、少し遅かったので舞妓さんショットは難しかった。夕暮れになると「しゃなり、しゃなり」と歩いておられますよ。舞妓さんは十五歳から二十歳で、振袖に「だらりの帯」、足もとは「おこぼ」で、京風のまげを自分の毛だけで結っている。一方、二十歳以上が芸鼓さんで、襟が短い着物に帯は二十太鼓、頭はかつら、舞妓から芸鼓に昇格することを「襟替え」というのだそうです。
 「・・・周辺にはお団子屋さんやらお土産屋さん、蕎麦屋、トンカツ屋さんなどの店がづらりとならび賑わいを見せている。大和大路通り、切通しなどの繁華街の通りを過ぎ、東へ少し行くと有名な一力茶屋、その前を南へ四条花見小路を下がると、紅柄(べんがら)格子が連なる花街が華やかにひろがる。その日は、お茶屋さんの提灯に灯が入り「都おどり」の文字が浮かび上がっていた。春になると京都では、五花街(祇園甲部、祇園東、宮川町、先斗町、上七軒)の踊りが繰り広げられる・・・」(本文現代編より)



 「・・・四条大橋は、八坂神社の「社家記録」によりますと、永治二年(一一四二)に架橋されたのでございますが、祇園社への参詣道のため、この当時は「祇園橋」と呼ばれたと申します。 三条や五条が町橋なのに対して、四条大橋は江戸幕府直営の公儀橋でございました。 】
 東海道につながる三条通りや伏見街道にいたる五条通の賑わいにくらべて祇園村はまだひっそりとして旅籠や茶屋など点々としていた。それでも、どんつきの祇園社・・・」(本文時代編より)