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2007年11月15日

私塾の始まりも京都から

 お玉が幼少期を過ごした寛永期の頃より、・・・京都では儒学や医学を中心とした私塾(民間の有識者によって開設された教育機関)が出来始めます。この松永尺五様の講習堂をかわきりに、のちに伊藤仁斎様の古義堂や山崎闇斎様の私塾、浅見絅斎様の金陌講堂、淵岡山様の京都学館といった具合に次々と私塾が開設されております。寺子屋が子供向けの読み書きそろばんといったことであったのに対し、私塾では儒学を中心に高度な学問がおしえられました。のち幕府の儒官に挙げられた木下順庵様の門下に新井白石・室鳩巣・雨森芳洲・祗園南海様らの大儒が輩出しておりまする・・・(本文 時代編)

・・・講義する尺五の上方には・講習堂・の扁額がかけられていた。
 「(講習堂)、てて様、あれはなんて読むん?」漢字のよめない仁右衛門がこまっていると、貞幹が助け舟を出した。「仁右衛門はんの娘御ですか?ほんにかいらしいお子やなあ。かしそうやし、こうしゅうどうと読むんです。おりゐのみかど(後水尾上皇)が御自らお書きになって賜りし、ありがたい扁額ですさかいに」「ふ~ん、みかど?」仁右衛門「おまはんはほんに何でも聞きたがるお子やなあ。お玉、青物売りに学問などいらんよってになあ」貞幹「いいえ、お玉はん、これからわなあ、世の中の人、みなが学問をする時代がやってきます、よう覚えときやあ、あっそや、いただきもんのいいふろや紙あるよってに持っておいきなあ、能く面の脂を取って、しかも浴したるごとくになると言います。かいらしい娘御にはようあいますえ」有名な現在の・あぶら取り紙・のことである。
 「てて様、今のがお武家はん?」「そうやなあ、えらい学問の先生やいいますえ」太平の世が築かれようとしていたこの頃から国学は理想社会の実現を、個人の精神的向上に求めていくようになる。のちに綱吉の教育ママになっていくお玉は、はじめて学問というものの存在を知った。そして貞幹はのちに綱吉の儒学の師となる木下順庵その人であった・・・(本文 時代編)
講習堂跡は現在は全日空ホテルとなっております。

古義堂跡は、東堀川沿いの下立売上がるに残されています。