2007年11月20日
一条札ノ辻の高札にてまかり知る・・・
京都のあちこちで見られる札ノ辻の地名は、街道に高札場があったことから来たといいます。平安京の一条大路は当時から様々な祭の行列を見るための桟敷がよく作られていました。道幅は十丈から十二丈(約30メートル~36メートル)という記録がございます。中世、室町期に二条通を境に上京と下京にわかれるようになると、一条通室町周辺は「札の辻」と呼ばれ、高札や町触れが掲げられるようになる。 里程の起点が三条大橋となる江戸中期まで、この一条通室町周辺が道路の起点となったほどであったといい、貞享三年(1686)と元禄四年(1691)版の「都大絵図」には「一条札の辻より方々への道之程」と記されてございます。 御所の周辺とあって御所の西側には、烏丸通の北は一条通りから南は中立売通あたりまでに「禁裏六丁町」が形成されました。 成立時期は不明ですが、天文三年(1534)頃の記録(『言継卿記』)にすでにみえている。 禁裏への労力奉仕や掃除、警護ばかりでなく、医師など御用をつかさどった人々が住んでいた町組みだといいます。
現在は、こんな感じです。

・・・仁右衛門は町組そしきの一つである下西陣組の寄り合いに出かけていた。髪結いの二階に設けられた町会所の寄り合い(何故かその頃の町会所は髪結いが多かったという)では京都所司代・板倉周防守重宗の配下の与力が出向き、お触書を読み上げている。傍らには町代の古久保与平が控えていた。「諸商売之事、右、諸国商人交易自由の便、諸人の要用也・・ばてれん門徒は露顕次第死罪に処す・・」ずいぶんと以前に発布されしものらしいが、なんどとなく寄り合いの場で引用され、周知徹底のことが呼びかけられた。「なお、こののちの細かき事は、一条札の辻(現在の室町通り一条付近)の高札にて罷り知るべし・・」寄り合いの後、いつも親切に目をかけてくれている町代に・・・(本文 時代編)
現在は、こんな感じです。
・・・仁右衛門は町組そしきの一つである下西陣組の寄り合いに出かけていた。髪結いの二階に設けられた町会所の寄り合い(何故かその頃の町会所は髪結いが多かったという)では京都所司代・板倉周防守重宗の配下の与力が出向き、お触書を読み上げている。傍らには町代の古久保与平が控えていた。「諸商売之事、右、諸国商人交易自由の便、諸人の要用也・・ばてれん門徒は露顕次第死罪に処す・・」ずいぶんと以前に発布されしものらしいが、なんどとなく寄り合いの場で引用され、周知徹底のことが呼びかけられた。「なお、こののちの細かき事は、一条札の辻(現在の室町通り一条付近)の高札にて罷り知るべし・・」寄り合いの後、いつも親切に目をかけてくれている町代に・・・(本文 時代編)